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[2008年04月08日] 毎日新聞問題:教育の評価方法について

毎日新聞の社説の批判を通して教育問題について考えたい。
メディアの人達は学校から『心付け』でももらってるのだろうか?


以下は教育と関係が無いですが気にしないでください。




毎日新聞 取材する金があるなら見舞金を


毎日新聞は1872年から取材をはじめ、今後も続けるという。
1879年に刊行された朝日新聞の、いわば劣化版である。

しかし、疑問がある。毎日新聞が多額の費用やメディアスクラム等の報道被害を
引き起こしてまで取材することに、どれほどの意味やメリットがあるのか。

同様の取材は朝日新聞が行っており、毎日新聞など無くても情報は入手出来る。

それに加えて今回、取材をする意義について毎日新聞は
「言論の自由独立を確保し真実敏速な報道と公正な世論の喚起を期する。」とする。
「全従業員の共同運営により社会の公器としての使命を貫徹する。」という。

結果は言論の自由独立により好きな様に編集し、大量の紙に印刷、
一日2回も大量のガソリンを使い、莫大なCO2を撒き散らしながら全国にバラ撒くと言う。

毎日新聞が取材することで、取材対象あたりの記者数が増え、
メディアスクラムの加熱に繋がり兼ねない。

確かに取材は過激になったが、報道内容の低下傾向が続いている。
また「朝日新聞はデタラメだ!」「朝日新聞をバカにする奴はネット右翼だ!」
というように世論の喚起は朝日新聞を中心に二極化する傾向も指摘されている。
昨今世論の形成に毎日新聞が関わっていると考える人は少ない。

この状況に必要なのは、朝日新聞の劣化版たる毎日新聞ではなく、
メディアスクラムによる被害者の救済だろう。
昨今問題視されている地球温暖化の為に毎日新聞を配らない事も有効だ。

被害者の生活は、適切な助けを受ける機会に恵まれることによって改善が期待できる。
補助金カットによって天下り企業ががらりと変わるのと同じだ。

毎年億単位の事業費が使えるなら、毎日新聞は取材と称しメディアスクラムの
一翼を担う事を止め、被害者に見舞金を送るべきではないか。



何なんだこれは!って書いたのは私です。
(下の毎日新聞社説のパロディーになります。)

ホントはこちら↓
『毎日新聞 2008年4月3日 東京朝刊 社説:全国体力テスト そんな調査より指導者育成を』
(http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20080403ddm005070168000c.html)


毎度の事ながら毎日新聞は煽っているだけで、全く議論にならない。

# 「そんな調査(全国体力テストの事)」「指導者育成」
さも二者択一であるかの様に主張しており「『そんな』調査」が必要だとするためには
「指導者の育成」が不要であると主張しなければならない様な印象操作を行っている。
→「朝日新聞」と「毎日新聞」が両方存在していてはいけないと?

# 「既存の調査」「全国体力テスト」
どちらが有用かについての議論が無く、既存の方を優先させるべきだと主張している。
→「朝日新聞があるのだから、古臭い毎日新聞など不要だ!」と?

既存の調査で「全国平均と個人の比較」は可能と主張するが、
「学校間の比較」や「都道府県、市町村間の比較」が不要である事を述べていない。
通常の試験によりクラス内での生徒同士の比較は既に行われているのである。
結局毎日新聞は「学校間の比較」や「都道府県、市町村間の比較」をされては困る
と言う事ではないのか。

「学校間の比較」は教師の評価に繋がり、
「都道府県、市町村間の比較」は教育委員会の評価と等価である。

教師の評価は必要なのだ。
教師の権利と子供たちの利益は相容れない部分がある事を理解すべきだ。
教育制度を教育を受ける子供たちの問題と捉えるなら、
教師の権利(身分)を制限する事も必要である。

教育制度の何が問題なのかと言えば、教師の身分が保証されている事と、
教師の評価が適切に行えない事だ。
これらにより、おそらく当人でさえ教師として向いていないと自覚していても
毎日学校に行ってさえいれば辞めさせられる事もなく、出世にも影響しない。
このために教育の為ではなく、漫然と自身の生活の為だけに学校に通う教師もいよう。
彼らには退場願うべきだ。

「適切な教育を受けさえすればどの様な人物でも立派な教育者になれる」
と考えるのは幻想だ。

教師に向かない人物に一定期間教育を受ける(拘束される)と言うことは、
子供たちにとって教育を受ける権利の侵害であるし、場合によっては
教育を受ける権利どころか教育を遠ざける(嫌いになる)契機にさえなるかもしれない。

私たちがすべきは、教育の成果について評価しない事ではなく、
教育の成果についての評価方法を確立することなのだ。
ペーパーテストやスポーツテストが全てではない位誰でも知っている。
しかし、ペーパーテスト等でも教育の『一部に』ついては評価できるはずだ。
他に評価すべき事があれば適宜追加してゆけば良い。

本当に教育を行いたい教師にとっても校長の気まぐれで評価されるのでははなく、
『客観的な』基準もあった方が望ましいはずだし、
適切な評価をされぬままにモラルを保つ事も困難を極めるはずだ。


ーー
(以下脱線する事をお許し願いたい)

実は私には『疑念』がある。
マスコミが絶賛している愛知県犬山市の教育は、本当に成果を挙げているだろうか。
彼らの『奇抜な』授業が効果的なら他の市町村も取り入れるべきであろう。
それは日本全体の教育水準を引き上げる事に繋がる。
そのためにも犬山市は全国テストで実績を示さなければならない。

皆と同じ事をしているならともかく、教育予算を増額して教員に雑用をさせず、
少人数で『奇抜な』授業をしている犬山市は、少なくとも現時点に於いて
他の地域と同じ土俵に立ってはいない。(絶対的に有利だと言う事)
これだけの事をしているのだから犬山市は全国の上位であるはずだ。

このため「競争を激化させるから参加しない」と言う主張はどう考えてもおかしい。
私たちの興味はそれら『奇抜な』授業がどの程度子供たちにプラスになるのかなのだ。
(ダブルスコアで佛恥義理ー!!!)

それとも他の地方が犬山市の『素晴らしい』やり方を真似て犬山市のアドバンテージが
低下する事を懸念しているのだろうか。それこそ馬鹿げている。
他の地域の成績が良くなったとしても犬山市の生徒の成績が下がる訳ではない。
それにグローバル化の現在においては、全世界と競争する事になるのだ。
日本の他の地域の成績を低く抑えた所で犬山市に大したメリットがあるとは思えない。

もし現在のペーパーテストではその成果が測れないと言うなら、
犬山市の教育委員会は『奇抜な』授業の成果を客観的に示せる方法を提示すべきだ。
そしてそれを含めた形で全国テストを行う事を要求したら良い。
「その評価方法が認められない限り参加しない」この様な主張は充分に建設的だ。
成果を示さずに予算だけ要求しているなら犬山市の教育は暴走しているのである。

私には犬山市の教員達は小手先のパフォーマンスをしている様にしか見えない。
自分たちの仕事に自信があるなら、他と同じ基準で一度実績を示すべきだ。
一度だけなら「競争が激化」などしようもない。


全国テストで競争をするのは生徒ではない。
生徒にとって他校や他県との競争などに興味があるとは思えない。
現在でもクラスメイトの間では共通のテストを行っているはずだ。
クラス内での競争の激化は心配しなくとも良いのか。

教師が自分の評価を不正な方法で上げようとしない限り、一斉テストで問題は生じないのだ。
もし『激化』したのなら、それは文科省や教育委員会でなくまぎれもなく教師の問題だ。
取り様によっては犬山市の教師は「不正な方法で評価を上げようとしてしまう」と
自ら吐露しているとも取れる。

もし成果が出ないなら、犬山市の教育予算は教師が楽をして好き勝手な授業を
行う為だけに使われている事になる。
犬山市の教育の成果について客観的なデータが必要だ。



P.S.
新聞での教師の言い分は、
「雑用のせいで。。。」「予算が。。。」「競争が。。。」「テストが全てではない」
どれも仕事が出来ない人間の典型的な言い訳だ。
仕事ができる人間は雑用もきっちりやるし、テストだって悪い点数は取らない。
さもないと「こんなことさえしてない!」「少しばかり仕事ができるからと言って!」と
罵詈雑言を浴びせられる事になるからだ。

こんな言い訳が通用すると考える教師や、それを記事にしてしまうジャーナリストって、
ダメ人間の寄せ集めなんじゃないの?
(ちなみに私はダメ人間の仲間です; 念の為)

[2007年07月25日] 朝日新聞問題:ジャーナリストの倫理観

> しかし、全国で全員にテストを受けさせ競わせれば、学力が上がるというのは
> 単純すぎないか。むしろ、副作用が心配だ。それが現実になったのが東京都足立区の
> 学力テストだろう。ある小学校で教師が間違った答えを書いている児童に合図をしたり
> して、成績を上げていた。
(朝日新聞2007年07月24日(火曜日)付社説「教育と参院選―安倍流改革を見極めよう」より抜粋)

朝日新聞の倫理観はどうかしている。
確かに私も全国学力テストで、教師の人格が明らかになると言う副作用について言及したが、
朝日新聞の主張は明らかにおかしい。

朝日新聞は「教師が不正行為をするから全国学力テストを中止しろ!」と言っているのだ。
この理屈なら「生徒がカンニング(=不正行為)をするから試験をやるな!」や
「年金の掛金を払わない人がいるから掛金を徴収するな!」との主張も可能だろう。
(あれ、どこかの政党が主張してたような。。。)

以前、地方紙の論説主幹がインターネットで他紙の社説を盗用した事についてテレビ朝日の番組で
鳥越俊太郎氏は「これはインターネットが引き起こした事件だ!」と主張していた。
彼の主張も朝日新聞同様に、テストでカンニングをした生徒が
「答案用紙を隠さなかった隣の奴が悪い!」と主張しているのと同じである。
仮に隣に優等生がいて、ちょっと覗けば正解が判ると判っていても、
それをしてはいけない事位、小学生だって知っているはずだ。

しかも「教師が不正行為を働くから」と言うのが朝日新聞の唯一の論拠なのである。
他に朝日新聞は「単純過ぎる」とも言っていてるが、単純であるとはどの様な事なのか、
単純であるとどの様な問題があるのか等について一切の説明が無い。
反証可能性が全く無い以上、こんなものは「悪口」でしかない。
(悪口だって、言ったらいけないんですよ!)

全国学力テストを「子供たちの為のテストでは無い」と言う人もいるが、
これも自分勝手な主張だと思う。
確かにその通りではある。でも、人は自分の為だけに生きているのではない。
これを認めてしまえば、国勢調査やマスコミの行う世論調査も廃止しなければならない。
「自分の為ではなく、下級生の為にするテストなんだよ!」子供たちにはそう教えるべきだ。
子供達も『上級生として』悪い気はしないはずだ。
それに私も小学生の時に『自分の評価に関係しないテスト』と言うものをやった経験がある。
確かに面倒ではあったし「本当に成績に関係しないの?」と多少不安にはなったが
それほど負担には思わなかった。(試験勉強もしなかったし、テストも気楽にやったから)

ジャーナリスト達はインターネットや全国学力試験が嫌いなのだろうが、
マスメディアを通じて、この様に幼稚であるだけではなく倫理的に不適切な主張をする神経が
私には理解出来ない。
ジャーナリストの倫理観はどうかしている。


--
私が「全国学力テストの副作用(=side effect)として教師の倫理感を明らかに出来る」と
主張したのは「倫理観の無い教師を見つけられる」との意味である。
不正行為を行なった教師は、教育現場にいるべきではない。

私たちが公教育に求める事は、読み書きそろばん以前に倫理観であろう。
読み書きそろばんなど出来なくても立派な人物は存在する。
しかし、教師がテストでカンニング(不正行為)をしたのだ。
子供たちにとって最も身近な手本となるべき大人であるはずの教師がこの有様では、
子供たちが他人や社会を信頼出来なくなる。

私は読み書きそろばんを初めとする公教育の最終的な目的は
子供達を「他人や社会を信頼出来る人」にする事なのだと思っている。
契約書に何が書いてあるか判らなかったり、つり銭がいくらか計算出来なければ
「自分は騙されているのではないか?」と、疑心暗鬼になりがちだ。
他人がどの様に感じているのか、社会がどう動いているのか。
これらを理解していなければ幸せになどなれないのである。


少しこの社説から外れるが、
「生徒のために(試験の結果が良い程教育予算が増えるから)やった」
等と主張するコメンテイターがいるが、到底信じられない。
彼の主張は「お金の為なら犯罪(不正)も許容する」と言っているのも同じなのだ。

教師は予算さえ増えるなら『子供に不正を手伝わせる事』について何とも思わないのか。
子供たちに不正行為を手伝わせる様な学校に、子供たちを通わせる事など出来るだろうか。
必修科目偽装問題等の件数を見ても、教師は犯罪者集団なのではないかとさえ思えてくる。

もう、日本の教育現場はおかしくなりすぎて、何が『正しい』事なのかさえ
判らなくなってしまったのではないか。


私は朝日新聞とは逆に、倫理観の伴わない(不正を行う)教師を摘発する為にも
全国学力テストは行なうべきだと考える。
ある人物が教育者として不適格である事を客観的に断定するのは難しい。
しかし「不正行為」が悪い事は自明だ。(朝日新聞には判らないかもしれないが)

本来なら「悪い事をする人がいるからやるな!」ではなく、
悪い事をする人こそを摘発すべきなのだ。
朝日新聞は犯罪者の目線で社説を書いているのである。


教師は子供たちに試験を行ない、評価を行なう。
「(自分や他人を)正当に評価する」この為に試験をするのだ。
こんな簡単な事が理解出来ない様な人物に、子供たちを評価などして欲しくない。


教育者やジャーナリストの倫理観には、あきれるばかりだ。


[2007年05月16日] 【真犯人はこいつだ】全国学力テストB問題の波紋


 先月24日、文科省の全国一斉学力テストが実施された。全国300人ほどの先生からその様子を聞いたので報告しよう。

 テスト問題は前日搬入され、金庫に保管された。前もって同じ問題の練習はできなかった。

 担任が試験監督を担当し、児童の質問にくわしく説明したため、公平さに欠ける学校があった。

 テストはA(基本問題)B(発展問題)に分かれ、Aは教科書の練習問題程度、Bは中学の入試問題程度であった。B問題は、ほとんどの学校のほとんどの子どもが、手をつけられない状態だった。
半数以上の子どもが白紙に近かったというクラスも多かった。

 通常の国語の授業では扱わない内容が多かったからだ。まして、国語の授業で「紙芝居作り」「劇作り」のような「活動」ばかりしているクラスは「テキストを読む」力がついていないため、大変だったようだ。

 国語Bの問題は「国際比較」で試される「読解力」(PISA型読解力)を意識したものといえる。テキストの情報を正確に読みとる力が要求されている。「作中人物の心情」を読みとるというこれまでの国語授業では手も足も出ない問題だった。

 子供たちの3割近くが机に突っ伏していたクラスも多くあり、これまでの「学習指導」を考えさせられた。

 県によっては、教育委員会が予想問題を作り、毎日練習をしている所もあった。

(2007/05/16 09:23)
http://www.sankei.co.jp/kyouiku/gakko/070516/gkk070516002.htm




この記事には実に『恐ろしい』事が書かれているが、触れないでおく。


> 県によっては、教育委員会が予想問題を作り、毎日練習をしている所もあった。
「毎日練習をしている」のは最大限好意的に解釈して、
「『本番』で実力が出せない事が無い様に」との配慮だとしても、
この教育委員会は即刻解散すべきだ。

この教育委員会は教育の根本を履き違えている。
教育委員会がすべきは、生徒を試験に適応させるのではなく、
試験の方を生徒に合わせる事なのである。

教育委員会や教師たちは「全国学力テスト」の試験問題について検討し、
文科省にどんどん注文をつけなければならない。

「『本当の』実力が計れる様な設問であるか」
「質問の仕方について工夫の余地はないのか」
「評価する点が偏っていないか」


例え「学力テスト」の成績が振るわなくとも、きちんとその理由を述べれば良いのである。
例えば、私には良く判らないが「紙芝居作り」「劇作り」自体は教育の『目的』ではなく、
『手段』であるはずだ。そこにはなんらかの『ねらい』が存在しているはずである。
もし「学力テスト」で「紙芝居作り」「劇作り」の『ねらい』が評価出来ないのなら、
教師達は『ねらい』を明確にした上で、客観的に評価出来る方法を提案すべきだ。そして、
「学力テストの成績は振るいませんでしたが、我が県は学力よりも『この点』を重視しています。教育の成果として『この様な評価』が不可欠です!」と、堂々と主張すれば良いのである。

「紙芝居作り」や「劇作り」が成果を上げている事を示すのも教師の仕事だ。
少なくとも産経新聞の記者には「紙芝居作り」や「劇作り」の『ねらい』は
理解出来ていない様に思う。
教師といえど公僕たる公務員である以上、皆が認められない事を行ってはならない。

「紙芝居さえ作れば絶対に『何か』が良くなる」とは限らないし、
もしかしたら、その時間に何か別の事をした方が子供達の為になるかもしれない。
このため「紙芝居作り」が有効な教育である事を示す必要があるのだ。
他の方法と比較するためには客観的な評価方法が不可欠である。


***
学力テストを行うから学力偏重になるのではない。
教師達が教育に関して、学力以外の『価値』を提示出来ない点こそが問題なのだ。
教師がすべきは、安易に生徒の「全国学力テスト」の点を上げる事ではなく、
教育における様々な『価値』を明らかにする事である。


「全国学力テスト」は良い機会ではないか。
この機会に、教育すべき事項とその評価方法を議論すべきだ。
少なくとも「学力テスト」によって教育の一面(「学力」)を評価する事は出来る。
もしそれ以外に教育の成果として『評価すべき点』があると言うなら、
教師や教育委員会はきちんと主張しなければならない。

学力偏重に加担しているのは、他ならぬ教師自身なのではないか。

[2007年05月06日] 朝日新聞問題:「子どもの学び合い」と「全国学力調査」

はじめに断っておくが、私は朝日新聞の主張する「こどもを信じて任せよう」との趣旨には賛成だ。
しかしながら、この社説にも朝日新聞の『プロパガンダ』を感じる。
(朝日新聞2007年05月05日(土曜日)付社説『こどもの日に―思い切って任せてみたら』)より


>  せんだって行われた全国学力調査を自治体で唯一拒否した愛知県犬山市の教育委員会は、
繰り返すが、この社説は「こどもを信じて任せよう」との趣旨である。
「せんだって行われた全国学力調査を自治体で唯一拒否した」との情報はこの趣旨とは無関係だ。

そしてこの社説には以下も書かれている。
> 学力調査への参加を求める父母もおり、拒否の教育委員会と市長が対立する騒ぎにもなった。
> だが、競争原理で教師や子どもの尻をたたく文部科学省にくらべ、夢を感じる。
以上を勘案すると、朝日新聞は暗に「全国学力調査」を非難しているのだ。

そもそも『特定の』授業が
>  先生が「静かに」と大きな声を出すことはない。子ども同士の会話が弾み、楽しそうだ。
> 「不登校はゼロ」と校長が誇らしげだった。
である事と「全国学力調査を自治体で唯一拒否した」事とは何の関係も無いのである。

「夢を感じる」からどうだと言うのだろうか。そんなものは、大人の自己満足に過ぎない。
私たちが気にすべきは「こどもの為」になっているかどうかだ。


==
私は朝日新聞が絶賛している「子ども同士で教え合」う事に問題が無いかどうかも考える必要があるように思う。

> 小学校の算数の授業をみせてもらった。
> (略)
> 「子どもの学び合い」を唱えている。黒板を背に教師が教えるのではなく、
> 子ども同士で教え合い、考えていく。

皆でひとつの事を成し遂げると言う経験も重要だし、
誰かに物を教えると言う事は勉強になる。
しかし「教えてもらう」立場の生徒からは、どう見えるだろうか。

子どもたちは「理解出来る子」と「理解出来ない子」が存在する事を目の当たりにする事になるだろう。
もし、自分には全く判らない問題を同級生が、いとも簡単に解いてしまったとしたらどう思うだろうか。

私は「教える」「教わる」と言う関係は対等であると思わない。
大人である教師ではなく、同じクラスメートから「教えてもらう」事に対して自尊心は保てるだろうか。
それに、同じ教わるにしても友人から教わった方が、教師に教わるよりも分かり易いと言えるだろうか。


「解る」と言う行為を理解すると言う事は哲学の問題とも言える。
おとなでもおいそれと答えられない洞察をこどもに期待するのは無茶であろう。
「自分が解る」なら「みんなも解るだろう」と考えてしまうのは、ある意味当然だ。
だから不用意に「何で解らないの?」と言ってしまったとしても、こどもを責める事は出来ない。

しかし、これを言われたこどもはどう思うだろう。
ただでさえ自分には解らないと引け目を感じているのに、
同じ歳の友人から「何で解らないの?」と心の底から言われたとしたらどうだろう。
私なら悲しくなる。むしろ馬鹿にされた方がいい位だ。

こども達は、教師とは違って教え方など習っていないのである。
教育の素人である同級生にほんの何分か教えてもらっただけで理解出来る方が奇跡であろう。

それにこの社説の例に挙げられた算数だと「教える」立場と「教わる」立場は固定してしまいはしないだろうか。
私は「子どもの学び合い」をするならむしろ算数の様に積み重ねを要する物ではなく、ゲームの様に『思いつき』が主要な要素を持つものだとか、
郷土研究などの様に、図書館で調べたり近所の老人に話を聴いたり神社を回って写真を撮ったりきれいに清書したりなど、皆の利点を出し合って協力出来る様な物にすべきだと思う。


***
朝日新聞は「競争原理で教師や子どもの尻をたたく文部科学省」と言うが、
文部科学省は「教師や教育委員会の尻をたたこう」としているに過ぎない。
少なくとも「全国学力調査」は教師の尻を叩く事は間違い無いが、
果たして「こどもの尻を叩く」と言う事に繋がるだろうか。

「愛知県犬山市の教育委員会」が「テスト」自体を否定しているなら
テストそのものである「全国学力調査」を拒否する理由にはなる。
しかしながら「全国学力調査」はこども一人一人の成績を付ける目的では行われない上、
おそらく生徒個人の点数を公表などしないだろうし、する必要も無いはずだ。
一方で犬山市がこどもの成績を付ける為のテストを行っているとするなら、
これは明らかな詭弁である。むしろこちらの方が「競争」だ。

「全国学力調査」が「競争」をもたらすとするなら、それは生徒ではなく、
教師や教育委員会での「競争」となるはずだ。
もし「こどもの尻をたたく」者がいるとすれば、それは自分の評価を上げる為に
自らを研鑚するのではなく、子どもたちのせいにする教師たちの問題である。
以前同様なテストで、成績の悪い生徒にテストを受けさせない事もあったと聞く。
子どもたちが不愉快な思いをする事は極力避けるべきだが、
この様な教師は実績を上げられない事以前に、ひとりの人間として失格だ。
「全国学力調査」の副作用として、教師の人格も浮き彫りに出来るのではないだろうか。

教師や教育委員会はこどもの為に切磋琢磨し「競争」しなければならない。
しかし「競争」の内容が学力だけであってはならないし、勿論『奇抜な』授業を競う事でも無い。

教育と言うものは、日々の積み重ねなのである。
毎日行われるひとつひとつの授業こそ評価すべきだ。
「全国学力調査」の拒絶の根拠が「こどものためにといって」はいるが、
実のところ教師や教育委員会の為だとしか思えない。

> 市費で非常勤講師や雑用担当の係を雇い、地域の支援も受けて、
> 教師が本来の授業に専念できるようにしている。
犬山市は30人学級で、しかも「雑用」はしなくても良いらしい。
とするなら「市費」の使用が有用である証拠として
むしろ「犬山市の教育委員会」は積極的に「全国学力調査」に応じるべきだ。

ここで言う「雑用」と言うのは「やりたくない」仕事と言う事なのではないのか。
真っ当な社会人であれば「雑用」も正当な仕事であることを理解しているはずだ。
「雑用」などと言い切ってしまう事自体、犬山市の教師や朝日新聞の記者の見識を疑う。


授業で「教え合い」をしているからといって「全国学力調査を拒否すべき」理由にはならない。
全く関係の無い話題で印象操作する事は、言論機関として卑怯な行為であり、
朝日新聞は「ロビイスト」と呼んで構わない様に思う。

[2006年11月26日] 教師達は『人間宣言』すべきだ!

昨今教師の問題点が指摘されている。

これに対して教師の多くは

教育を満足に行う為には、生徒は教師を『尊敬』している必要がある。
社会全体が教師を批判しすぎるのが問題だ!

との不満を持っているかもしれない。


しかしこれは教師と言う職業に対する『期待』の裏返しであるように思う。
私たちは教師に期待しすぎているのではないだろうか?

ただ、この点に関して教師の側にも問題がある。
教師は「尊敬」と言うものについて誤解しているのだ。

教師批判に対して不満を持っている教師達は、
「自分は尊敬されるべきだ!」と主張しているのである。
では、あなたが尊敬されるべきと言う根拠は何なのだろうか?
あなたが「教師」であるからなのか?
あなたが教職試験に受かった点なのか?

「尊敬」とは職業に付随した属性などではない。
尊敬とは「この人なら『期待』に応えてくれる」との身勝手な『思い込み』だ。
「尊敬」されたいのなら、相手の期待に応え続けなければならないのである。

ここでひとつの『ジレンマ』が存在する。
そもそも尊敬は期待に応えつづける事によって得られる物なのに、
教師は「『尊敬』されなければ期待に応えられない」と言うのである。
教師達はこの様な「無いものねだり」をしていても意味が無い事に気づくべきだ。


他方、教師と比較される「塾の先生」は社会的に評価されているのだろうか?
私は必ずしも「塾の先生」の社会的評価は高くないと思う。
しかしながら「塾の先生」は曲がりなりにも教育を行っている。これはなぜなのか?

「義務教育とは違って自ら選んで行っている」と言う事もあるだろう。
しかし、こどもが自発的に塾に行って学びたいと思っている事は稀ではないだろうか。
多くの場合は親が子供を無理矢理行かせているのではないか。
例えそうではなかったとしても「なぜあなたの所に自発的に行こうと思わないか」
と、自問すべきだ。
教育行政の問題なのか?学習指導要領が悪いからなのか?

私はそうは思わない。
それは塾の先生は「尊敬」されているからである。
塾の先生達には「生徒を名門校に合格させた」だとか
「テストの成績が上がった」の「実績」があるのだ。
私たちは塾の先生には「成績を上げる」以上の事を期待などしていない。
それに応えたからこそ、塾の先生は「尊敬」されているのである。

翻って、学校の教師はどうだろう。
学校の教師たちは「『出来ない』などと言ったら尊敬されない」と
思ってはいないだろうか。それは間違っている。
現在の教師は「出来ない」と絶対に言わないから私たちは過大な期待をするのであるし、
そして当然の事ながらその期待は裏切られ、私たちは教師に失望するのである。
果たして失望した相手に尊敬など出来るだろうか?


学校の先生は、社会の事を何も判っていない。
出来ない事を「出来る!」と言う人を尊敬出来るとでも思っているのか。
教師達はこどもが夢想する様なヒーローにでもなれるとでも思っているのではないか。

自分達の信頼が失われた事が判っているなら、尊敬される為には
何なら出来るかを明確に示し、それをひとつひとつ解決して見せる事しかない。
これは出来ない事は出来ないと表明する事でもある。

教師達は、自分がヒーローなどではなく、ひとりの人間である事を表明すべきだ。
そして教師自身も、自分が尊敬の対象である「先生」などではなく
『普通の人』である事を自覚しなけれなならない。


教師はもっと『大人』になるべきだ。

Appendix

プロフィール&お知らせ

Author:minorYou
匿名でーす。

皆が言っている事は特に書きません。
改行が変ですが『縦書き』はありません。

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04/05 6ヶ国協議に関するエントリが排除されました
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12/10 朝日新聞についてのエントリが排除されました。
12/8 歴史認識についてのエントリが排除されました。
9/16 イラク関連のエントリが排除されました。
8/16 戦争についてのエントリが排除されました。
8/9 歴史認識についてのエントリが排除されました。
7/20 犯罪被害者の匿名化についての記事が排除されました。
7/13 人権養護法案についての記事が排除されました。
7/09 野党(特に民主党)の批判をした記事の多くが排除されました。
6/30 テレビ朝日(田原総一朗、古館伊知郎、コメンテイター等)を批判した記事の多くが排除されました。
6/23 毎日新聞を批判したエントリーが軒並み排除されました。