Entries

[2008年06月03日] 不適切なコメント削除宣言!(仮)

極東ブログを言う有名なブログがコメント欄を承認制とする事を勧めています。
『もうコメント欄を承認制にしますよ。みなさんもそうしたほうがいいですよ。』
(http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2008/06/post_efdf.html)

私はこのエントリを『承認制』よりむしろ「コメント放置」の問題として読みました。
私はよほど酷いものではない限りコメントは削除しない方針でしたが、
このエントリを読んでコメントの放置は『罪』である様に思えて来ました。

実社会では、家の前にゴミを捨てられていたら放置しては置かないですよね。
ネットにおいても自分のブログのコメント欄はきれいにしておくべきなのです。
ネットの特徴として、発言が半永久的に『記録』され続ける事があります。
掃除をしなければ、永久にゴミが存在し続けてしまいます。

もしかするとネットでも「割れ窓理論」(**1)が成立しているのかもしれません。
炎上したサイトを放置しておくと、新参者が「ネットとはこの様なものだ」とか
「このサイトでは悪態を付く事が『礼儀』」と『学習』してしまうかもしれません。
私たちはネットにおける言論の多様性と秩序とのバランスを考える必要があります。

ここで私は『宣言』します。
「不適切なコメント削除宣言!(仮)」
(もっと格好いいキャッチフレーズとロゴマークを募集します。)

ネットにおいても自分の家の前は掃除しておくべきなのです。
ゴミをそのままにしておく事は、ゴミ屋敷同様ネットの迷惑ですから、
賛同するブログ主さんはこのロゴマーク?を掲げて、積極的に不適切なコメントを
削除する事を宣言するのです。(私には作れないので誰かお願い!)
そしてこれはコメントをブログ主の判断で削除する事を公言するものでもあります。


最後に、『承認制』についてですが、私は今のところ承認制を考えていません。
承認制の良い所は、不適切なコメントを隠蔽出来る事です。
でもこれは匿名で中傷する事と同様な問題が存在するのではないでしょうか。
なぜなら、どの様なコメントが消されたか書いた本人以外誰にも分からないからです。
何が不適切なのか、それは単にブログ主にとって不都合であっただけかもしれません。

私はブログ主も「黒木ルール」(**2)に従うべきだと考えます。
「不適切にコメントを消したブログ主は恥をかくべき」なのです。
(「どの様なコメントをしたか」と「どの様なコメントを削除したか」は等価と考えて)
少なくとも「削除する前に誰かが見ている」可能性が存在すれば、
「自分に不都合なコメントを消した!」との批判を意識する事になり、
コメントの削除の濫用を防ぐ事が出来るはずです。
また私がコメントを投稿する場合「送れたかな?」と心配になりますから、
きちんと送れた事を確認出来れば安心出来ます。
透明性と言う意味において、一度は表示した方が良いでしょう。

格好いいロゴマーク、誰か作ってくれないかな。。。


===
(**1)「割れ窓理論」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B2%E3%82%8C%E7%AA%93%E7%90%86%E8%AB%96
(**2)「黒木ルール」 http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/Anonymous.html

[2007年08月01日] 従軍慰安婦:日本として『けじめ』をつけるべきだ

先の参議院選挙で民主党は過半数を占める事となった。
折角なので、是非とも民主党にやって欲しい事がある。

このまま行けば参議院は民主党が多数党になり、参議院議長も得られるだろう。
そこで、河野談話について『河野洋平氏の参考人質疑』を行って欲しい。
参議院で衆議院議長の参考人質疑を行うなど前代未聞なのではないか。
参議院の存在感を示すと同時に、民主党の政治手腕をも示す事が出来るはずだ。

いわゆる河野談話は、当時の政府が勝手に出した「談話」であり、
国会の承認を得たものではない。
国会においてその内容を再度検討し、お墨付きを与えるか、
撤回もしくは修正の必要があるのかについて論議を尽くすべきだ。

質疑をとおして、河野談話の解釈やその論拠をはっきりさせるのである。
日本人である私たち自身、河野談話が狭義の強制性をも含めての謝罪であったのか
良く分かっていない。河野氏自身がどの様なつもりで談話を発表したのか
そこにはどの様な根拠が存在するのか公の場できちんと説明させるべきだ。


朝日新聞の2007年08月01日(水曜日)付社説の様に

 河野談話は、様々な証言や証拠を吟味した結果、軍の関与を認めたうえで、
慰安婦の募集や移送、管理などで全体として強制性があったと述べた。
日本政府としての公式見解である。

と、政府の発表を鵜呑みにし、
「日本政府が『様々な証言や証拠を吟味した』のだから正しい」
と主張する行為は報道機関としての責務を放棄しているとさえ言える。
これではまるで戦時中の『大本営発表』だ。


朝日新聞らが主張する『歴史』とは一体何なのだろう。
『様々な証言や証拠』とは何なのか、日本人自身が知る必要がある。
そうでなければ日本人が歴史から学ぶ事など出来ない。
米国の決議は『様々な証言や証拠』を日本人が知らない事を問題にしてるのだ。


---
実は私が一番懸念しているのは、河野氏が似非人権主義者で

「可哀想だから謝罪した」

と、『反省の伴わない謝罪』をしている事である。

反省とは、過去の自分の行為について誤りを認め、悔い改める事だ。
自分が何を行い、何をしていないかについて把握せずにした『謝罪』など、
「良く判らないけど、とりあえず謝っておこう」と言う事であり、
謝罪になっていないばかりか、かえって被害者を馬鹿にしているとさえ言える。

私は世界が日本を怒っているのは「狭義」「広義」の問題ではなく、
日本が「『反省の伴わない謝罪』をしている事」についてではないかと思うのだ。
少なくとも大多数の日本国民は「様々な証言や証拠」について知らないのである。
これでは日本人が反省など出来るはずもない。

こんな事を言われないためにも、河野洋平氏は日本国民をはじめ全世界に対して
丁寧に説明する義務がある。
聞く人によって解釈が違う様な『談話』など、有害無益だ。


正直私はうんざりしている。『事実』なんかどうでも良くなってきた。
ここで『政治的に』白黒はっきり付けようではないか。



P.S.
ひとつ解せない事がある。
謝罪すべきは戦後生まれの首相なのだろうか。私はそうは思えない。
本当に謝罪すべきは「戦争中に慰安婦を慰み物にした『ジジイ』達」であるはずだ。

中日新聞の2007年8月1日付社説によれば、

慰安婦システムそのものを黙認したこと自体が人道に反し、
後世に裁かれるべき歴史の暗部であったことに異論はないはずだ。
時代のせいにはできない。

との事である。「時代のせいにはできない」らしい。

戦後生まれの日本人は、戦争を行なった『ジジイ』達の負の遺産を受け継いだのである。
『ジジイ』達が、涙ながらに慰安婦(や戦後生まれの日本人)に謝罪したのなら
誰も「狭義」の強制性などとは言わないはずだ。
当事者でさえ反省していないものを、戦後生まれの人間が反省など出来るだろうか。

まず第一に『ジジイ』達が反省し、謝罪すべきだ。
その姿を見れば、私たち戦後生まれの人間も事の重大さに気づくだろう。
私は『ジジイ』達でさえ、自分も被害者だと思っていて何ら反省などしていない様に思う。
「戦争体験者が少なくなって行く事が心配だ!」など、思い上がりも過ぎる。
お前達こそ率先して「反省」を示せ!戦争体験者は政府を非難して被害者面するな!

日本人全体として反省などしていない。と言うより事実が判らないから出来ないのだ。
戦後生まれの首相を非難する事は違う様に思う。

[2007年05月18日] 朝日新聞問題:集団的自衛権―何のために必要なのか

以下、朝日新聞 2007年05月18日(金曜日)付社説
『集団的自衛権―何のために必要なのか』について


朝日新聞の主張こそ『恐ろしい』。

朝日新聞は
>  国連平和維持活動(PKO)などで隣り合わせた外国の部隊を守るのも、
> 安全確保のための武器使用という文脈でとらえられる。
と言っているのである。

朝日新聞は日本が攻撃されていない段階での『安全確保のための武器使用』を認めると言う事だ。
これはとても危険な主張だと言える。
この事は『予防的な』軍事措置を認める事に他ならないからだ。

簡単に言ってしまえば、
「日本が危険だと『思いさえすれば』国外において武力行使出来る」と言う事なのだ。
これを認めてしまったら何の歯止めも機能しなくなる。
以前問題になった敵基地攻撃論なども当然許容されるはずだ。

この理屈に従えば太平洋戦争さえも正当化出来るのである。
「アメリカが日本の安全を脅かした(自存自衛の戦争)」とするのは
所謂『靖国史観』そのものではないか。
朝日新聞こそ、前の戦争から何を学んだと言うのか。


一方で、集団的自衛権であれば日本一国のみの『思い』だけでは何ら正当性を持たない。
少なくとも同じ「集団」も同様な(自衛権の発動であるとの)考えを共有している必要がある。

この様に恣意的な運用を許さない為にも「集団的自衛権」と言う歯止めは絶対に必要だ。
朝日新聞こそ「戦争の出来る国」を目指しているのではないのか。


(この社説には他にも大きな問題があるのだが、論点が発散してしまうので省略する)

[2007年05月10日] 日本では鉢植を贈ると「軍国主義者」と罵られる

正直私はうんざりしている。所謂「靖国問題」についてだ。

これに反対する人たちは靖国神社の参拝を
「侵略戦争、植民地支配を正当化する行為である」としており、
朝日新聞などは9日付の社説で、靖国神社の存在そのものまでを全否定している。


ここでは日本の首相ではなく、昭和天皇の靖国参拝について論じようと思う。
昭和天皇は靖国神社にA級戦犯が合祀された直後に参拝をしなくなり、以降一度も参拝していない。
この理由は、最近見付かった日経新聞と朝日新聞由来の『資料』により、

「直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」

と言う事になっている。この事はとても重大な意味を持つ。


私はずっと天皇自身の意思で『公務』を取りやめる事など出来ないと思っていた。
しかし現実には出来たのである。

参拝を中止した点ばかりが注目されているが、
裏を返せば、昭和天皇はA級戦犯合祀までは参拝していたのだ。
自分の意思で止められるのに続けていたと言う事は、少なくとも昭和天皇は
A級戦犯が合祀されるまでは「参拝しても差し支え無い」と考えていたはずだ。
果たして昭和天皇は「侵略戦争、植民地支配を正当化」しようとの意図を持っていたのだろうか。

でなければ首相の場合は「侵略戦争、植民地支配を正当化する事になる」が、
昭和天皇の場合には「侵略戦争、植民地支配を正当化する事には当たらない」
との合理的な説明が出来なければならない。
戦後生まれの首相が行うと問題で、日本国の象徴であるばかりか戦争当時の元首
でもあった昭和天皇が参拝する事に問題が無いとの理由など存在するだろうか。


もし、昭和天皇が前の戦争を正当化しようなどと考えていなかったとすれば、
少なくとも昭和天皇は靖国神社を参拝する事が

「侵略戦争、植民地支配を正当化する事には当たらない」
との認識を持っていたはずである。

私は日本人の多くも、その様な認識だと思う。

[2007年05月04日] 憲法改正問題: 『神』は死んだ!

現行国憲法が出来た時の日本は占領下にあり、独立の為には拒否出来なかったと言う事もある。
これを「押しつけ」と見る事も出来よう。

しかし、『当時』の日本人に「自由」や「民主主義」等という概念が理解出来たとは思えない。
おそらく日本人自らが憲法を作っていたら、現在とは全く異なったものになっていたはずだ。
結果として『押しつけ』られた事が日本にとって良かったと言える。

憲法の策定に日本人が関与したかどうかには関わらず、
多くの日本人からすれば日本国憲法はそこに『既にあった』のである。
それには「自由」や「民主主義」、「戦争放棄」などの『ご神託』が書かれていた。

その後の日本人は、ありがたい『ご神託』に従う事で、
日本と言う国は『神』の寵愛を受けて、めざましい発展を遂げる事が出来た。



・・・しかし、「『神』は死んだ」のである。


私たちは『現実』に目を背けてありもしない『神』にすがって
今まで通りに振る舞っていくか、もしくは私たち「日本人自らの手」で
日本と言う国を再構築すると言う作業を行わなければならなくなったのだ。


朝日新聞は2日付の社説で「不思議なのは、憲法について否定的なことを言う安倍氏が、自由や民主主義の価値を語るときはうってかわって肯定的な姿勢に転じることだ。」と言っている。
朝日新聞は、おそらく前者の立場を取っているのだろう。

しかしながら安倍首相の言う「戦後レジームの脱却」というのは、
「『神』を信じ、『ご神託』に従って行動する」事を止め、
自ら「『知恵の実』を食べて『楽園』から追放される」事を意味するのである。

『楽園』など存在しないのだ。この事は
『ご神託』に従って「自由」「民主主義」「戦争放棄」をするのではなく、
日本人自らの手によって「自由」「民主主義」「戦争放棄」を行うと言う『宣言』である。


日本人が「自由」「民主主義」「戦争放棄」の恩恵に預っている事は誰も否定しない。しかしながら現在の日本における「自由」「民主主義」「戦争放棄」は『神』から与えられたものに過ぎない。言い替えれば、現在の日本における「自由」「民主主義」「戦争放棄」は日本人が望んだものではないのだ。
『知恵の実』を食すと言う事は、本当に日本人自らが望んで「自由」「民主主義」「戦争放棄」を手に入れ直すと言う『宣言』でもある。

実はこの事は、日本国憲法にも書かれている。

> 第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。


私たち日本国国民は『不断の努力』を怠っている。
なぜこの様な事になってしまったかと言えば、私たち日本国民が
「日本と言う国をどんな国にしたいのか」と言う根元的な問題を避けて来た点にある。
自衛隊を派遣する時も「憲法上問題が無いか」ばかりが論じられ
「わが国としてどうすべきか」との観点からの議論は皆無であった。

幸か不幸か日本には、祝福を約束された『ご神託』が存在していたのだ。
私たちが気にすべきは『ご神託』に背いているかどうかだけであった。


しかしながら「自由」も「民主主義」、「戦争放棄」も『神』が与えてくれる物などではない。
ここで、日本人自らが本当に「自由」や「民主主義」、「戦争放棄」を欲しているかを問い直すべきなのだ。


私は「『神』は死んだ」との前提で(安倍首相によれば「国民自らの手で白地から書くという決意と精神によって」)、日本人自らが「日本をどんな国にしたいのか」について論じなければならないと考える。
そして、改めて日本人自身が「日本をどんな国にしたいのか」について宣言すべきなのだ。

これは必ずしも現在の憲法を変えると言う事ではない。全く同じ文言でも構わないのだ。
中にはこの行為が無意味だと考える人もいるかもしれない。しかしこうする事によって、
もうそれは『与えられた』ものでは無くなる。他ならぬ『私たち』の意思表明なのだから。


憲法は「国家のアイデンティティ」を表明したものである。

朝日新聞の社説で絶賛している太田光氏の
「ぽっとできた。これはもう誰が作ったとかいう次元を超えたものだ」
など到底「アイデンティティ」とは呼べない。

こんな無責任な物を憲法だと主張しているからこそ、日本は諸外国から信頼されないのだ。
確かに戦後日本は戦争をしなかった。しかしそれは朝日新聞の主張するように『ご神託』のお蔭である。これは本当の意味で日本人の意思ではない。
この様な『神任せの』国を誰が信頼などするだろうか。


実際に憲法の策定に日本人が関与したかどうかなど関係無い。
最大の問題は、日本人が「これこそ『わたしたちの』憲法だ!」と言えない事にある。
その国民の血や肉になってはじめて本当の憲法と言える。
日本人は『自らの憲法』を手に入れなければならないのである。

繰り返すが、これは必ずしも改憲を意味しない。
しかしながら『ご神託』の存在を前提にすると言う事は、
自ら『奴隷』である事を望んでいるのと同じだ。
望むと望まざるとに関わらず、日本国民は日本国の『主人』であらねばならない。


(注: 文中の「日本人」とは「日本国民」の事です)

Appendix

プロフィール&お知らせ

Author:minorYou
匿名でーす。

皆が言っている事は特に書きません。
改行が変ですが『縦書き』はありません。

『よいこ』向けではない勧誘コメントや
TBは削除します。ごめんなさい。
(『不適切なコメント削除宣言!(仮)』遂行中)

「禁止ワード」なるものを設定しました。
トラックバックやコメントが反映されない場合は
単語等を見直してください。
通常なら直ちに掲載されます。

googleから完全にハブられたエントリが6%あります。
(「googleに嫌われたエントリ」で9of9のもの)
お勧めですので、是非読んでNE!

おまじない→[かくかく]

月別アーカイブ

年-月 (件数)を選んで「Go」ボタンを押して下さい。

最近の記事

>>もっと古い記事(全記事一覧)

googleに嫌われたエントリ

googleにおいてインデックスが張られていないエントリ
(x of x): リンクが切れているサーバ数
[xx日]: インデックスが切れてからの日数
(Since Sat Aug 11 2007)
07/23 朝日新聞に関するエントリが排除されました。 05/06 朝日新聞に関するエントリが排除されました。
05/02 教育(教師)を批判するエントリが排除されました
04/05 6ヶ国協議に関するエントリが排除されました
2008/03/29 民主党を批判したエントリのほとんどがgoogleから排除されたようです。
12/10 朝日新聞についてのエントリが排除されました。
12/8 歴史認識についてのエントリが排除されました。
9/16 イラク関連のエントリが排除されました。
8/16 戦争についてのエントリが排除されました。
8/9 歴史認識についてのエントリが排除されました。
7/20 犯罪被害者の匿名化についての記事が排除されました。
7/13 人権養護法案についての記事が排除されました。
7/09 野党(特に民主党)の批判をした記事の多くが排除されました。
6/30 テレビ朝日(田原総一朗、古館伊知郎、コメンテイター等)を批判した記事の多くが排除されました。
6/23 毎日新聞を批判したエントリーが軒並み排除されました。