某放送協会で京都大学大学院准教授 大澤真幸氏が
『若者のナショナリズム』について論じていた。
簡単に要約すると、
| 「90年代中盤以降より、右傾化やナショナリズムの傾向が若者の間で高まっている」
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| 一方で、
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| 「日本に対してどのくらい自信をもっているのか」との意識調査では
| 「日本人の日本への自信は、80年代の初頭がピークで、その後は下がってきています。」
| 「若い人ほど日本への自信が小さいことがわかります。」
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| となるので、「ナショナリズムが強化されている、とりわけ若者たちの間で」
| を意識調査は否定している様に見えます。ここで、大澤先生はこう続けます。
|
| 「 ここで、あえてこう考えてみるのです。
| 統計データの上では、むしろ、このような否定的な結果を見せるような、
| 独特なスタイルのナショナリズムが、今日、流行しているのではないか、と。」
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| この先生はこれら『矛盾』を解消する為に現在のナショナリズムは
| 「独特なスタイル」であると主張するのです。
| <以下、その説明が続きます>
実は私は先生の説明を全て受け入れたとしてもこれは「ナショナリズム」ではないと思います。
なぜなら、
「私は神を信じてはいませんが、教会では礼儀正しく礼拝につきあい、信じているふりをいたします。」
先生はこの様な人を「『独特なスタイルの』キリスト教徒」と呼んでいる事になります。
この人を「キリスト教徒」と分類する必要があるのでしょうか?
私は先生の説明をそのままに、最近の若者は「ナショナリストの様に振る舞っているがナショナリストではない」
と主張します。
詳しくはNHKの解説委員室ブログの8月15日に
「視点・論点 「シリーズ戦後『若者のナショナリズム』」に全文が掲載されていますので参照ください。
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10分と言う短い時間に反証可能性をも含めて持論を展開されていると言う点
については評価しますが、前提からしておかしく思います。
凡人なら当然の様に「それはナショナリズムではないのでは?」と
考えるのではないでしょうか?
しかしこの先生は「現在の若者はナショナリズムの傾向が高まっている」とする為に
『ナショナリズム』を再定義してしまったのです。これでは本末転倒です。
先生が『ナショナリズム』の例として挙げた
# o 2002年のワールドカップの折に日本を屈託なく応援する若者たち
# (香山リカ氏が「ぷちナショナリズム」と呼んだ現象)
# o 小林よしのり氏のマンガ『戦争論』の大ヒット
# o ネットでのいわゆる左翼バッシング
これらは、本当に『ナショナリズム』の発露なのでしょうか?
確かに香山リカ氏は『ナショナリズム』と名付けてはいますが、
『プチ』が付いていますから『ナショナリズム』と同じ物であるとは思えません。
(実は私は『戦争論』なるマンガを読んだ事は無いのですが)
特定のマンガが売れたから『ナショナリズム』であると言うのもどうなのでしょう。
これが例えばハードカバーの高価な専門書の様なものであったのなら別ですが、
マンガが売れるのは主張に共感したからと言うよりも「おもしろさ」ではないでしょうか。
左翼の人をバッシングするのは必ずしも『ナショナリズム』のせいではない
と思います。左翼の人同士でも批判しあいますし「バッシング」するのが
『ナショナリスト』の証拠であるとも思えません。左翼の人も『歴史認識』や
『靖国参拝』を「バッシング」しますしね。
意識調査の結果も大澤先生自身
「(ナショナリズムが強化されているとの主張を)まったく否定している」
と述べています。それでもなお「現在の若者はナショナリズムの傾向が高まっている」
と『ナショナリズム』の定義を規定し直してまで主張する意味はあるでしょうか?
その上大澤先生は最後に
# 「あなたはナショナリストですか」という意識を正面から問うような質問には
# 「いいえ」と答えますが、行動の面では、まぎれもないナショナリストとして
# 振る舞うのです。
と述べられます。果たして本人が自覚していない「ナショナリスト」を
ナショナリストと区分すべきなのでしょうか。
そして「日本を屈託なく応援する事」が「まぎれもないナショナリストとして振る舞う」
事にあたるのでしょうか。
実は私はこの行為と意識のギャップは「若者の『ナショナリズム』の特殊性」などではなく、
『サヨク』の人の「認知の『歪み』」を示している様に思います。
おそらく『サヨク』の人にとっては「日本を屈託なく応援する事」や
「小林よしのり氏のマンガを読む事」や「『サヨク』を批判する事」を
『ナショナリズム』であると感じるのでしょう。
私はネットでバッシングされているのは本当の左翼ではなく『サヨク』だと
思っています。(例えば外山恒一氏はネットで大評判でした)
私の言う『サヨク』とは本来の左翼ではなく
「自分のアイデンティテイを補償する為に他人を見下す人」を指します。
(詳しくは「『ウヨク』と『サヨク』と『ネット右翼』(2007-06-13)」参照)
彼らの行動の目的は他人を見下す事なので、相手の上を行く主張をしなければなりません。
このため『サヨク』の主張はどんどん過激になって行きます。
「戦争責任を感じているなら常に引け目を感じなければならないはずだから、
『屈託なく』応援など出来る訳が無い!」
「小林よしのり氏のマンガは歴史(を正当化する)教科書問題とも深く結びついているから売れてはならない!」
「進歩的な俺様(『サヨク』)を批判するなど、愚かな『ナショナリスト』に違いない!」
私は「右傾化」は最近の若者の問題であると言うよりも
むしろ『サヨク』の人達の歪んだ物の見方を表している様に思います。
別の言い方をすれば、大澤先生が意識調査で「ナショナリスト」としての指標として使った
「日本に対して自信を持っている」事が「日本を屈託なく応援」し、
「小林よしのり氏のマンガが売れ」て「『サヨク』をバッシングする」
事に繋がるかを考えてみれば明白です。(関係無いですよね)
大澤氏の例は「ナショナリズム」を示してはいないのです。
『サヨク』の文脈に限って言えば、罵倒語にあたるとは思いますが、
「ナショナリズム」や「ナショナリスト」って悪い事なのでしょうか?
私は「ナショナリスト」に問題があるとするなら、
「神の国日本が戦争をすれば(『神風』が吹くから)絶対に負けない!」の様な
根拠の無い自信や「劣等人種である外国人になど優しくする必要は無い!」
等の差別的な考え方であって、
「(例え『屈託なく』ではあっても)日本を応援する事」や、
「問題のある『サヨク』を批判する事」は何ら問題では無いと思います。
私には、先生ご自身が『サヨク』の文化に毒されている様に思えます。
それともおかしいのは私なのかな???(どこがおかしいのか教えてね!)
それを例に挙げて、元の文脈のナショナリストの定義を否定されています。
元の文では最後に若者の思想の空洞化を指摘して締めているような気がします。
なしょなりすと≠右翼、左翼。
と、最後はどちらも同じくくりになっている気がします。
元の文で右翼を否定しているような文脈はない気がします。
今の日本に置いて必要とされるのは、ウヨクでもサヨクでもない、半端ではない何かなのでしょうか?