『岩見隆夫のコラム サンデー時評:佐高さんの「田原斬り」にひと言』より
(http://mainichi.jp/select/seiji/iwami/news/20080402org00m010045000c.html)
岩見氏は田原総一朗氏を擁護してジャーナリストについて語っている。
> こんな当たりまえのことを書くのは奇妙な気分だが、
> ジャーナリストであるかないかも含め、自由に考え、
> 自由に発言する機会をだれも邪魔することはできないのだ。
確かに言論の自由を援用すればジャーナリストと名乗る事は自由ではあるが、
ジャーナリストとしての誇りを持っている人物なら
絶対に「ジャーナリストと名乗るのは自由だ!」等と主張はしないはずだ。
ジャーナリストと名乗れるのはジャーナリズムに準じる人でなければならない。
> 権力の御用聞きでしかない田原は、もう、ジャーナリストではない。
> それなのに、そういう自覚がなく、「ジャーナリスト」と名乗っている(から『退場』しろ)
(佐高信著『田原総一朗への退場勧告』?)
私にはこちらの方が『まとも』な主張に思える。
岩見氏の主張も反論にはなっているが、ジャーナリストとしての『誇り』を捨てている様に思う。
岩見氏はジャーナリストとして反論出来なかったのだろうか。
> 〈おまえの文章は二度と読みたくない。直ちに筆を折れ〉
私もブログを書いているので気持ちは判らない事は無いのだが、これを
> この国、まだ言論の自由の尊さが根づいていないのか、と不安に駆られるのだ。
と感じるようではジャーナリストとしては甘えすぎだ。
素人のブログで言論の自由を基にこの様な主張をする事は構わないが、
これを言ってしまってはプロではない。
プロなら「プロの書く文章ではない」との批判であると受け取るべきだ。
私はジャーナリストなる人達は甘えている様に思う。
政治家に対して『結果責任』を言うなら、ジャーナリストにも結果責任が存在する。
それは自分の書いた文章について如何なる評価も甘んじて受けると言う事だ。
そしてその『評価』は言論の自由の下に大衆が批判する事になるのだ。
例え不適切なものであっても法を犯していない限り許容しなければならない。
仮に読者が誤読した場合でも、プロなら書き方を工夫する余地を探るべきだ。
全ての人が不満に思わない文章など、ジャーナリズムとしては何の意味もない。
全ての人が『真実』を直視するだけの『勇気』を持っているとは限らないから、
核心に触れる事を書けば、それを認めたくない人はきっと大騒ぎする。
逆に全く事実と異なる事を書いてもやはりそれはジャーナリズムではないから批判されるだろう。
強い口調であるからと言って「批判をするな!」とプロが言うべきではない。
> 二つ目は、権力に対する姿勢である。ジャーナリストは権力側に立ってはならない。
> いついかなるときも、権力と向かい合うポジションを堅持しなければならないのだ。
これはジャーナリストを名乗る人達がよく使う言葉だ。でもこれは誤っている。
ジャーナリストの取るべき立場は、おそらく『ニュートラル(自然体)』なのだ。
偏見や先入観や自分の社会的な立場に囚われず正面から『澄んだ目』で事実と向き合う。
この意味において「ジャーナリストは権力側に立ってはならない。」のである。
一方で「いついかなるときも、権力と向かい合うポジションを堅持しなければならない」となると、
事実と対峙するより前に見るべき立場を決めている事になる。これでは事実を伝える事など出来ない。
私はこの言説を言い出したのは『左翼』の人だと思う。彼らの立場は『反権力』だからだ。
記者達が何の疑問を持たずにこの言葉を使っている事にジャーナリズムの『闇』を感じずにはいられない。
確かに『屈する』相手は『力』を持っているはずだ。そうでなければ『屈する』必要など無いのだから。
そして何を『屈する』のかと言えば、「自分の良心に反した記事を書く事」に他ならない。
私は先の戦争でジャーナリスト達が偏向報道をしたのは、国家権力に迎合したと言うよりも
読者(国民)の聞きたい『事実』を伝えた結果であると考える。『力』とは権力に限らないのである。
岩見氏が挙げていない『力』として新聞社の収入源である「読者」や「スポンサー」は言うに及ばず
「上司」「デスク」「編集者」「経営者」全てに対してニュートラルである必要があるのだ。
果たして新聞社の一社員と言う身分で本当にジャーナリズムを追求など出来るのだろうか。
例えば、自分の信じている事と会社の見解が違っていた場合、
ジャーナリズムを追求する為に即座に会社を辞める事が出来るだろうか。
ジャーナリストであるなら、自分の信じた事以外を記事にしてはならないのだ。
「しょうがない」こう思った瞬間に、もはやその人はジャーナリストでは無い。
「信じたこと以外は書かない」これはジャーナリストとしての最低限の倫理であろう。
自分の生活(立場)を守る為に書いた記事など、ジャーナリズムではない。
実のところ新聞社の人間なんて、ジャーナリストを気取っていても単なるサラリーマンなのだ。
彼らは本当にジャーナリストとして記事を書いているだろうか。
「仕事で指示された事を書いただけなのに〈おまえの文章は二度と読みたくない。直ちに筆を折れ〉
なんて言われたら堪らない」この程度の事なのではないのか。
私には岩見氏には「言葉」の重みが理解出来ていない様に思う。
例え言論の自由が存在していても、自由を行使するには『覚悟』が必要なのだ。
批判や罵倒される事もジャーナリストの仕事である。
社会的な要請としては、弾圧される事さえもジャーナリストの職務の内だと言ってよい。
これだけの事を期待されているからこそジャーナリストは尊敬されるのである。
実のところジャーナリストと名乗っているうちの何人が尊敬に値するだろうか。
記者なら全てジャーナリストと言う訳ではない。
私には岩見氏にはプロフェッショナルとしての『自負』が無い様に思う。
テレビにも出ている50年も記者をしていた人物が
『ジャーナリストとしての誇り』を持ち合わせていない事が残念でならない。
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