毎日新聞の社説の批判を通して教育問題について考えたい。
メディアの人達は学校から『心付け』でももらってるのだろうか?
以下は教育と関係が無いですが気にしないでください。
毎日新聞 取材する金があるなら見舞金を
毎日新聞は1872年から取材をはじめ、今後も続けるという。
1879年に刊行された朝日新聞の、いわば劣化版である。
しかし、疑問がある。毎日新聞が多額の費用やメディアスクラム等の報道被害を
引き起こしてまで取材することに、どれほどの意味やメリットがあるのか。
同様の取材は朝日新聞が行っており、毎日新聞など無くても情報は入手出来る。
それに加えて今回、取材をする意義について毎日新聞は
「言論の自由独立を確保し真実敏速な報道と公正な世論の喚起を期する。」とする。
「全従業員の共同運営により社会の公器としての使命を貫徹する。」という。
結果は言論の自由独立により好きな様に編集し、大量の紙に印刷、
一日2回も大量のガソリンを使い、莫大なCO2を撒き散らしながら全国にバラ撒くと言う。
毎日新聞が取材することで、取材対象あたりの記者数が増え、
メディアスクラムの加熱に繋がり兼ねない。
確かに取材は過激になったが、報道内容の低下傾向が続いている。
また「朝日新聞はデタラメだ!」「朝日新聞をバカにする奴はネット右翼だ!」
というように世論の喚起は朝日新聞を中心に二極化する傾向も指摘されている。
昨今世論の形成に毎日新聞が関わっていると考える人は少ない。
この状況に必要なのは、朝日新聞の劣化版たる毎日新聞ではなく、
メディアスクラムによる被害者の救済だろう。
昨今問題視されている地球温暖化の為に毎日新聞を配らない事も有効だ。
被害者の生活は、適切な助けを受ける機会に恵まれることによって改善が期待できる。
補助金カットによって天下り企業ががらりと変わるのと同じだ。
毎年億単位の事業費が使えるなら、毎日新聞は取材と称しメディアスクラムの
一翼を担う事を止め、被害者に見舞金を送るべきではないか。
何なんだこれは!って書いたのは私です。
(下の毎日新聞社説のパロディーになります。)
ホントはこちら↓
『毎日新聞 2008年4月3日 東京朝刊 社説:全国体力テスト そんな調査より指導者育成を』
(http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20080403ddm005070168000c.html)
毎度の事ながら毎日新聞は煽っているだけで、全く議論にならない。
# 「そんな調査(全国体力テストの事)」「指導者育成」
さも二者択一であるかの様に主張しており「『そんな』調査」が必要だとするためには
「指導者の育成」が不要であると主張しなければならない様な印象操作を行っている。
→「朝日新聞」と「毎日新聞」が両方存在していてはいけないと?
# 「既存の調査」「全国体力テスト」
どちらが有用かについての議論が無く、既存の方を優先させるべきだと主張している。
→「朝日新聞があるのだから、古臭い毎日新聞など不要だ!」と?
既存の調査で「全国平均と個人の比較」は可能と主張するが、
「学校間の比較」や「都道府県、市町村間の比較」が不要である事を述べていない。
通常の試験によりクラス内での生徒同士の比較は既に行われているのである。
結局毎日新聞は「学校間の比較」や「都道府県、市町村間の比較」をされては困る
と言う事ではないのか。
「学校間の比較」は教師の評価に繋がり、
「都道府県、市町村間の比較」は教育委員会の評価と等価である。
教師の評価は必要なのだ。
教師の権利と子供たちの利益は相容れない部分がある事を理解すべきだ。
教育制度を教育を受ける子供たちの問題と捉えるなら、
教師の権利(身分)を制限する事も必要である。
教育制度の何が問題なのかと言えば、教師の身分が保証されている事と、
教師の評価が適切に行えない事だ。
これらにより、おそらく当人でさえ教師として向いていないと自覚していても
毎日学校に行ってさえいれば辞めさせられる事もなく、出世にも影響しない。
このために教育の為ではなく、漫然と自身の生活の為だけに学校に通う教師もいよう。
彼らには退場願うべきだ。
「適切な教育を受けさえすればどの様な人物でも立派な教育者になれる」
と考えるのは幻想だ。
教師に向かない人物に一定期間教育を受ける(拘束される)と言うことは、
子供たちにとって教育を受ける権利の侵害であるし、場合によっては
教育を受ける権利どころか教育を遠ざける(嫌いになる)契機にさえなるかもしれない。
私たちがすべきは、教育の成果について評価しない事ではなく、
教育の成果についての評価方法を確立することなのだ。
ペーパーテストやスポーツテストが全てではない位誰でも知っている。
しかし、ペーパーテスト等でも教育の『一部に』ついては評価できるはずだ。
他に評価すべき事があれば適宜追加してゆけば良い。
本当に教育を行いたい教師にとっても校長の気まぐれで評価されるのでははなく、
『客観的な』基準もあった方が望ましいはずだし、
適切な評価をされぬままにモラルを保つ事も困難を極めるはずだ。
ーー
(以下脱線する事をお許し願いたい)
実は私には『疑念』がある。
マスコミが絶賛している愛知県犬山市の教育は、本当に成果を挙げているだろうか。
彼らの『奇抜な』授業が効果的なら他の市町村も取り入れるべきであろう。
それは日本全体の教育水準を引き上げる事に繋がる。
そのためにも犬山市は全国テストで実績を示さなければならない。
皆と同じ事をしているならともかく、教育予算を増額して教員に雑用をさせず、
少人数で『奇抜な』授業をしている犬山市は、少なくとも現時点に於いて
他の地域と同じ土俵に立ってはいない。(絶対的に有利だと言う事)
これだけの事をしているのだから犬山市は全国の上位であるはずだ。
このため「競争を激化させるから参加しない」と言う主張はどう考えてもおかしい。
私たちの興味はそれら『奇抜な』授業がどの程度子供たちにプラスになるのかなのだ。
(ダブルスコアで佛恥義理ー!!!)
それとも他の地方が犬山市の『素晴らしい』やり方を真似て犬山市のアドバンテージが
低下する事を懸念しているのだろうか。それこそ馬鹿げている。
他の地域の成績が良くなったとしても犬山市の生徒の成績が下がる訳ではない。
それにグローバル化の現在においては、全世界と競争する事になるのだ。
日本の他の地域の成績を低く抑えた所で犬山市に大したメリットがあるとは思えない。
もし現在のペーパーテストではその成果が測れないと言うなら、
犬山市の教育委員会は『奇抜な』授業の成果を客観的に示せる方法を提示すべきだ。
そしてそれを含めた形で全国テストを行う事を要求したら良い。
「その評価方法が認められない限り参加しない」この様な主張は充分に建設的だ。
成果を示さずに予算だけ要求しているなら犬山市の教育は暴走しているのである。
私には犬山市の教員達は小手先のパフォーマンスをしている様にしか見えない。
自分たちの仕事に自信があるなら、他と同じ基準で一度実績を示すべきだ。
一度だけなら「競争が激化」などしようもない。
全国テストで競争をするのは生徒ではない。
生徒にとって他校や他県との競争などに興味があるとは思えない。
現在でもクラスメイトの間では共通のテストを行っているはずだ。
クラス内での競争の激化は心配しなくとも良いのか。
教師が自分の評価を不正な方法で上げようとしない限り、一斉テストで問題は生じないのだ。
もし『激化』したのなら、それは文科省や教育委員会でなくまぎれもなく教師の問題だ。
取り様によっては犬山市の教師は「不正な方法で評価を上げようとしてしまう」と
自ら吐露しているとも取れる。
もし成果が出ないなら、犬山市の教育予算は教師が楽をして好き勝手な授業を
行う為だけに使われている事になる。
犬山市の教育の成果について客観的なデータが必要だ。
P.S.
新聞での教師の言い分は、
「雑用のせいで。。。」「予算が。。。」「競争が。。。」「テストが全てではない」
どれも仕事が出来ない人間の典型的な言い訳だ。
仕事ができる人間は雑用もきっちりやるし、テストだって悪い点数は取らない。
さもないと「こんなことさえしてない!」「少しばかり仕事ができるからと言って!」と
罵詈雑言を浴びせられる事になるからだ。
こんな言い訳が通用すると考える教師や、それを記事にしてしまうジャーナリストって、
ダメ人間の寄せ集めなんじゃないの?
(ちなみに私はダメ人間の仲間です; 念の為)
[C50] ストレス解消