この映画の主な登場人物とされる「92歳の刀匠」が自分の出演部分の削除を求めています。
仮にこの映画を作成した李纓監督の言う事が全て正しいとしても、
この監督には取材対象者の発言が変わった以外の事は判らないはずです。
発言を翻したとされた後に対象者とは連絡が取れていないようですから
どの様な経緯で発言を変えたのかについて監督には知る術がありません。
(以後ソースは「映画『靖国』上映中止に抗議する緊急記者会見(http://jcjkikansh.exblog.jp/8632874)」)
> ですから、李監督は、有村議員が取材対象者に接触して翻心させたということが納得できない、と言います。
接触した事は事実の様ですが、どうして「翻心させた」のが『有村議員』であると断言できるのでしょう。
客観的に見れば、これは監督の『憶測』でしかありません。
こう主張するなら、まず事実を確認すべきではないでしょうか。
私には「納得できない」と主張するこの監督は思い込みの激しい人に思えます。
この点だけでも、この監督が「上質なジャーナリズム」を作成したとは考えにくいと考えます。
その時点で取材対象者が「快く」応じてくれたとしても、
(誰かから指摘されたか事が理由であるかは別にして)後で後悔する事はあり得ます。
プロなら後悔しないように充分に納得してもらってから取材する必要があります。
(少なくとも商品の販売にあたっては同様な説明義務が存在します)
この意味でもこの監督の主張はプロとして「見苦しい」と思います。
> またこの作品はナレーションがなく、作者の考えを押し付けていないと評価しました。
ナレーションが無くとも、印象操作は可能です。
この事はテレビを知り尽くした田原総一朗氏なら当然理解しているはずなのに、
敢えて「この作品はナレーションがなく」が「作者の考えを押し付けていない」
との論拠とも取れる様に援用している所に氏の『悪意』を感じます。
「ナレーションが無い」事の方がドキュメンタリーとしては危険です。
「作者の考えを押し付けていない」風を装いながら印象操作を行っているのですから。
ナレーションは作成者の責任で付けるものですから、むしろ責任を引き受けているのです。
一方で「事実のパッチワーク」に対して客観的に批判をする事は不可能です。
(これを「ドキュメンタリー」と誤解する人は多いようですが)
# 批判が出来ないと言う事は、映画を見ても客観的な評価が出来ない事を意味します。
# 結局「自分にとって都合が良い映画かどうか」で評価が分かれる事になるでしょう。
少なくともこの映画には「92歳の刀匠」の取材映像は含まれているようです。
例えばモノローグが含まれていた場合、それは印象操作である可能性が高いと考えられます。
カメラを向けた途端に突然話始める人はまずいませんから、
製作者側から何らかの『問いかけ』もしくは『依頼』があったはずで、
それを明らかにしなければ「ドキュメンタリー」とは呼べません。
それ以前に、多少なりとも編集が行われていれば
(故意であるかは別にして)そこには製作者の主観が投影されます。
編集作業は何を見せて何を見せないかを決める行為に他なりませんから取捨選択がおこなわれており、
特定の事項について数が多いか少ないかと言う情報は正確ではありませんし、
また人は見た物に対して無意識に因果関係を見出してしまうため
その『事実』を見せる順序によっても印象は変わります。
撮影時刻と場所をランダムに撮影した映像でも無い限り、
「作者の考えを押し付けていない」など、あり得ないのです。
もしドキュメンタリーで結論めいたものを感じたなら、
それは「作者の考えを押し付け」られている事に他なりません。
実際の現場を見てもそれは事実の一部にしか過ぎませんから、そこで結論を出す事など出来ません。
ましてや映画を見ただけで何かが判ったと信じる事は危険です。
映画では短い時間で、しかも五感のうち視覚と聴覚でしか伝える事は出来ません。
その様な手段で『真実』(もしくは『事実』)を伝えようとするのですから、
ドキュメンタリーの本質は、実際以上の『事実』を表現したものです。
これは別に悪いことではありません。製作者の想いがあって当然なのです。
これを「作者の考えを押し付けていない」と主張するなど、
ジャーナリストの倫理に反する主張であるとさえ言えます。
これは本当は
「作者の考えを押し付けている様に見えない(が実際は押し付けている)」
と言うべきです。これは見る側が充分注意しなければならない事を意味します。
> 「シネマート」を東京、大阪で運営する「エスピーオー」(港区)は今月1日、
> ホームページに経緯を説明する文書を掲載。国会議員による試写会後にアルゴ(配給会社)側に
> 「安全な上映環境の整備」を申し入れたが「中止にすることで了承を願いたい」
> と申し出があったとしている。
(『「靖国」上映中止:「圧力」じわじわと 週刊誌報道、議員向け試写きっかけに』
http://mainichi.jp/enta/cinema/news/20080407ddm012040112000c.html)
この部分だけを読むと「言論や表現の自由の侵害」を訴える配給会社は
上映中止を避けようとの努力をしていない様にも見えます。
このため「配給会社が『上映中止』を映画の宣伝に利用しようとしていた」可能性も
監督の「有村議員が取材対象者に接触して翻心させた」程度にはありそうです。
(ちなみにこの毎日新聞の記事には配給会社の反論も書かれています)
私は把握していないのですが、上映中止に繋がる程の『脅し』等があったのでしょうか?
もし『脅し』や『嫌がらせ』により上映中止に追い込まれたなら、
応援すべきは上映を中止せざるをえなくなった映画館の方です。
折角作っても上映出来ない映画などいくらでもありますから
「特定の映画を上映しよう」との主張は飛躍しすぎています。問題なのは
「上映できないこと」ではなく不適切な方法により「上映中止に追い込まれた」事です。
政治家やジャーナリスト達は配給会社の「言論や表現の自由の侵害」との主張に
良いように誘導されてしまったのではないでしょうか。
配給会社の事実認識が正しいとしてもこれは『表現』ではなく『脅迫』の問題です。
この会見が「参議院議員会館」で行われた事や、各新聞社が社説で
「国会議員はこの映画の上映を働きかけるべきだ!」等の主張をしているのを見るにつけ、
政治家やマスコミは映画の宣伝に利用された様に思えてなりません。
何か尤もな大義が示されるとジャーナリスト達は一斉に同じ主張を始める。
私はそれを恐ろしく感じます。
言論を危うくしているのはむしろジャーナリストの方ではないでしょうか。
ところで(劇場公開にあたっての)『誠心誠意』とはどの様な文脈で使われたのでしょうか。
ドキュメンタリー映画に対するコメントとして『違和感』を感じます。
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