右翼の街宣車やネット右翼の抗議電話が怖いと映画の上映を取り止めたり、
反戦ビラを自衛隊の官舎内に入って各戸に投函した左翼(市民)団体が有罪になったりと
抗議行動について様々な批判が出ている。
抗議とは『許せない事』をしている相手に対し、
「止めて欲しい!」はっきり言えば「止めろ!」と主張する事である。
一連の問題をジャーナリストや知識人達はイデオロギーの色眼鏡で論評しているが、
これらはイデオロギー抜きで考える必要がある。
なぜなら、誰にでも起こり得る事だからだ。
確かに街宣車は典型的な右翼団体の抗議方法であるし、
ビラ捲きや(ハンガー)ストライキは左翼団体の典型であろう。
右翼がストライキを行ったり、左翼が街宣車を用いる事は聞いたことが無い。
これは彼らのメンタリティーの違いなのかもしれない。
きっと右翼は自分を『ヒーロー』に
左翼は『悲劇のヒロイン』に重ね合わせているのだろう。
おそらく『ヒーロー』なら勇ましく一方的に大衆に主張すべきなのだ。
『ヒーロー』の主張は皆が聞きたいはずだから大きな音である必要があるし、
皆が聞きたい『ヒーロー』が選んだセンスのある音楽も流す。
『悲劇のヒロイン』であれば、可愛そうな自分を皆に分かってもらおうと
一枚一枚のビラを心を込めて一人一人(各戸)に手渡す必要がある。
入り口にある集合ポストでは想いは届かないのだ。
もしくは可愛そうな自分がどれほど困っているかを可憐な乙女が空腹を我慢している姿として
皆に解ってもらおうとする。
これらは飽くまで抗議者の一方的な『思い込み』によるものなのだ。
一般人からすれば『ヒーロー』を目にしただけでも相当ビビる。
しかも大音量なのだ。容易に一般人が受け止められる容量を越えてしまう。
カリスマがあればあるほど、一般人には穏やかに接しなければならない。
『悲劇のヒロイン』である貞子が、ご丁寧にも「また来ちゃった。てへ!」と
『心のこもったお手紙』を家の前に残していたら、
その恐怖足るや想像を絶するはずだ。悲劇の度合いが高いほど一般人は恐怖する。
こちらも悲劇のヒロインほど、一般人には穏やかに接しなければならない。
ただ、抗議に際し「冷静に」あたると言うのは非常に難しい。
抗議の原動力は『怒り』である。『怒り』をどの様に表明するにしても
相手は恐怖を感じるはずだし、そもそも目的は相手の行為を止めさせる事にある。
相手が悪いから『怒って』いるのだから、
『悪人』を改めさせる為には多少の逸脱は正当化されると考えてしまう。
『ヒーロー』からすれば自分たちは正面から堂々と主張しているのだから、
恐怖するのは何か後ろめたい事があるからと考えるかもしれない。
一方『ヒロイン』は、ただ単に自分の気持ちを分かって欲しいだけなのに
「家に近づくな!」と主張するのは、自分を苛めているのだと受け取るだろう。
今回、一連の『靖国映画問題』を別の見方からすれば、
(逸脱した『脅迫』の様な抗議は無かったと仮定して)
「(特定の団体から見れば)『不適切』と思われる映画を抗議行動により
止めさせる事が出来た。」と解釈する事も出来よう。
(これは件の映画が不適切だと主張するものではありません)
ところがこれを「言論、表現の自由の危機」と解し、各メディアは
キャンペーンを張ったのである。しかも国会議員まで「特定の映画を上映すべき!」
と堂々と公言しだした。これは国会議員の活動として問題とならないのだろうか。
国会議員なら脅迫等の有無を確認した上で「脅迫に屈するな!」と
映画館を応援するに留めるべきではなかっただろうか。
国会議員が公然と特定の(しかも商業活動にも繋がる)『言論』を応援にする事は
問題ではないのか。
もし現在のメディアや国会議員の振る舞いが『正しい』なら、
上映する映画館がかえって増えた様に、抗議行動自体が無意味なものとなる。
果たしてメディアの主張する様に、私たちは不適切な内容の映画が公開されたり、
マスメディアが不適切な情報を流す事に対して無力で無ければいけないのだろうか?
私たちは「表現の自由」の為に『不適切な』映画が公開されるに任せるしかないのか。
(これは件の映画が不適切だと主張するものではありません)
私は不適切な映画が上映されると思った場合に抗議する事は構わないと考える。
果たしてそれは「言論表現の自由の侵害」に当たるのだろうか?
(これはイデオロギー抜きで考えてください)
『脅し』の要素は極力排除すべきだが、
社会的な影響を考えればメディアに対する抗議は許容されるべきだ。
マスメディア(映画館も含む)は情報の発信者としては『強者』である。
一般人と比べれば情報の『特権階級』と言って良い。
もし私たちが彼らの『自由』を侵害出来ないとするなら、
私たちは彼らの主張を一方的に甘受するしかない。
マスメディアは「表現の自由」や「報道の自由」を都合の良い様に
敢えて歪曲しているのだ。
「表現報道の自由」はメディアの特権などではない。国民の権利である。
マスメディアが国民に対して『自由』を主張する事は間違っているのだ。
私は法律の専門家ではないが、『自由』にはきっと優先度があるのだ。
最も優先度が高い自由はおそらくひとりひとりの国民としての権利だ。
次に業務として行う報道や興行(映画館)に対する権利であろう。
一人の人間に対して「表現するな!」と主張する事は許されるべきではないが、
私人が報道や興行に反対する言論は許容されるべきだ。
昨今のマスコミの論調は、私人の権利より報道機関の権利を擁護するものである様に
思えてならない。情報のエスタブリッシュメントである映画館に対する
私人からの抗議は許容されるべきだろうし、
ジャーナリストが上映の可否についての見解を述べる事も許されるべきだ。
では私人がビラを蒔く行為も許容されるべきだろうか。
今回の場合、ビラを配る相手が事業者ではなく個人の自宅(官舎の戸口)である為に
個人どおしの権利が交錯する事になる。
この場合は「やりたい」よりも「止めてくれ」との方を優先すべきなのではないか。
この機会に私たちは『適切な』抗議の方法について検討すべきではないだろうか。
一連の問題を「バカな右翼、ざまあみろ!」や「左翼可哀想、警察権力の横暴!」
と他人事としてではなく、自分ならどの様に『抗議』をするか、
社会としてどの程度の抗議を許容すべきなのかについて議論しておくべきだ。
自分にとって『許せない』事が今日にも起こるかもしれないのだ。
私には街宣演説やストライキ、ビラ配りや電話、メール程度しか思いつかない。
果たして最適な『抗議』手段と言うものは存在するだろうか。
***
メディアは自分達の『特権』を守る為に
「報道の自由」や「表現の自由」やネットの問題などを使って
私人のメディアに対する対抗手段を封じようとしている様に思う。
私たちはこのまま黙っていて大丈夫だろうか。
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>今回の場合、ビラを配る相手が事業者ではなく個人の
>自宅(官舎の戸口)である為に個人どおしの権利が交
>錯する事になる。
この場合、住人個人というよりも管理者・管理組合が判断してしまうところに問題があると思います。